top of page
interview top

Interview

interview kanda

神田香織

ライブでKODAN 神田香織さん「福島の人々の思い」訴える

東日本大震災から4年・・・福島第一原発事故後、福島の人々の思いを講談師として訴えてき た、いわき市出身の神田香織さんが、3月26日(木)、東京・阿 佐ヶ谷ロフトAで開催される「オルタナミーティングvol.5」に登場する。同イベントの司会を務める東京・杉並区議会議員の市来とも子さん(社民党) が、神田さんの思いに迫った。

 

市来とも子区議 今回のイベントで、講談「ふくしまの祈り~ある母子避難の声~」を疲労していただきますが、まずは被災後の活動についてお聞かせください。
神 田香織さん もう怒りでいっぱいです。全国で福島の実態をお話して、講談もして、福祉まで取材もして・・夢中に日本中を飛び回った4年間でした。福島を取 り巻く状況は何一つ良くなっていません。当初3000人だった作業員が今は6000人。一方でベテラン作業員が被ばくして働けなくなり、不慣れな作業員が 当たっている状況です。そして待ったなしで流出する汚染水。また、政府は避難区域指定を解除して避難している人々を戻そうとしています。双葉町で言えば、 大きな中間貯蔵施設を造ろうという動きがあるにもかかわらず、です。人権が虫けら同然に扱われています。これは原発を抱える町全体に言えることです。再稼 動したら、また悲劇が起きます。被ばくした町の人々は福島のように見捨てられる。長い目で見れば、水俣病や足尾銅山鉱毒事件のように、住民たちは分断され て、孤独になって、自死してしまったりする。そういうときにまたもや大きな政党にすがってしまうという悪循環ー。安陪政権は、選挙では一切触れなかった再 稼動を進めていきます。これに対抗するには、やはり福島の人々が自らの人権いついて訴えることが必要です。
市来 避難区域指定の解除ですが、チェルノブイリの基準だと解除できない占領であることが問題です。
神田 福島では若くして亡くなっている人が増えています。心筋梗塞で亡くなる人も平均の2倍。自死する人の数も急増。仮設住宅で認知症になってしまう高齢者も多い。これだけの悲鳴をなぜ政府は無視するのか?悲しいです。
市来 神田さんは、子どもたちの保養プロジェクトを進めてこられました。杉並区でも2012年から毎年夏に福島から親子を招いています。
この運動についてはどうですか?
神 田 今から9年前、ベラルーシとウクライナの被ばくした地域を取材しました。そこでショックを受けたのは、子どもたちの多くが健康ではなかったこと。ま た、障がいのある子が生まれると親が逃げてしまうことがあるそうで、保養施設や孤児院に預けられている子が多い。7割くらいの子が知能障害や免疫不全を 持っていて、骨や内臓、目や耳に病気を抱えているようでした。それをきっかけに私は講談「チェルノブイリの祈り」をつくったのですが、日本でも健康被害は あるのです。
市来 骨抜きにされた「子ども・被災者支援法」では、子どもの保養を国の事業として位置付けていません。また、保養活動を行ってき て、私は保護者の方の状況がこの数年で変わったと感じています。昨年の第3回の時に驚いたのは、保養に来ていることを学校では言えないというのです。それ を言うと、周りから変な目で見られると。子どもたちを守りたいと思っている保護者の気持ちが隠されてしまうという現実があります。分断の一つですね。とこ ろで神田さんは「ふくしまの祈り」を震災後につくられたわけですが、どのような思いがこめられているのでしょうか。
神田 2020年五輪招致のプ レゼンテーションで安倍首相が行った「アンダーコントロール(制御されている)」発言に対して、「そうじゃない」と訴えたいんです。タイトルに「ある母子 避難の声」を入れたのは、関東から子どもの健康のことを心配して移住していくお母さんたちの話だからです。福島の人たちの気持ちは、自分たちと同じような 目にはもう遭わせたくないということです。ちなみに、続編もつくる予定です。
市来 講談をライブハウスですることは珍しいと思います。歌手の李政美さんも出演していただきますが、「ふくしまの祈り」の中に、李政美さんの歌を取り入れていると知りました。
神田 武藤類子さんが「私たちは東北の鬼になる」と語った伝説的な演説に李政美さんが曲をつけたのが、今回歌っていただく「あゝ福島」です。いつか私が講談を語るときに歌ってもらえたらいいなと夢のように思っていたことが実現しました。
市来 では今後の抱負をお聞かせください。
神田 私はほかの芸人に「売れないのになぜ」と言われる作品ばかりやってきました。私は理不尽な目に遭った人のお話をしたんです。
市来 あは、それはよく伝わってきます。
神 田 それでも、年をと取ったらやがては故郷の親のそばで・・なんて思っていたのですが、東北大震災が起きた。それからは行く先々で福島の人の気持ちを訴え ることを決心しました。つらい話題であっても元気になるように、力が沸いてくるように、講談という700年の伝統芸をフル活用させてもらい、怒りながら、 泣きながら燃えていく。お客さんに自分が本気にならなきゃだめなんだと思ってもらえるような仕事をやっていくつもりです。
市来 私も子どもの保養プロジェクトを続けていきます。イベント当日は司会をしっかり頑張ります。
神田・市来 皆さん、よろしくお願いいたします。

 

社会新報 2015年3月4日号から転載

interview tomo

友川カズキ

原発頭にきた


「気になっていることや、頭にきていることを歌で表現しています。いま一番頭にきているのは原発です。『3.11』の前までは、自分も年だし売れないし、表現することはもういいかなと思っていました。でも『3.11』で頭にきた。

原発について無知だった自分自身にも頭にきましたね」

3年ぶり
3年ぶりのとなるアルバム「復讐(ふくしゅう)バーボン」には11曲を収録。36年前に作った「家出青年」の再録音では、詩を絶叫する後半の部分に、こういう言葉を加えました。
「原発だろうと何だろうとイヤなものはイヤだと声を成せばいい。色素のないおくゆかしき美意識なぞ、そんじょそこらの鶏のフンですらない」「『貧困が暴力』なら 無知も暴力である 悔しき暴力である」。
怒 りを込めた心底からの叫びは迫力満点です。「『貧困が暴力』だといったのはインドのガンジーです。『3.11』の後は、自分の無知に腹を立てながら、原発 問題の本を読み直して勉強しています。いやなものはいや、頭にきているなら頭にきていると、はっきり言いましょう。原発事故の収束を宣言した民主党もひど かったけど、海外に原発を売り込む自民党はもっとひどい。表現者として冗談じゃないぞと言い続けたい。表現者の端くれなので、声を出してなんぼの世界です から」
怒りをぶつけてはいても、表現としては複雑です。どの作品にも意味のとらえ難い部分があり、そこが不思議な味わいを生んでいます。「歌詞の意味が何だか分からなくてもいい。歌の行間を感じて欲しいですね」


ライブは自分との勝負

中原中也
出身は秋田県。中学時代、図書館でたまたま目にした中原中也の詩「骨」に衝撃を受け、詩作を始めました。「『骨』というタイトルがショックでした。それまで本を1冊も読み通したことが無かったので、免疫が無かったんですね(笑い)。感動ではなくて、
びっくり。読み込んでいくうちに、なんだろう、これが詩か、変なものだなあと思い、興味をもちました」高校時代はバスケットボール部で活動しながら太宰治などの文学書を乱読。高校卒業後に上京し職業を転々とするなか、フォーク歌手の岡林信康さんの
歌に影響されシンガー・ソングライターの道へ。1075年にレコードデビューしました。代表作「生きているって言ってみろ」や「トドを殺すな」は昨年からラジオで繰り返し流されるなどして、再び注目されるようになりました。テレビ出演の機会も
増え、ライブ会場には若い聴衆が増えました。画家でもあり、自身のアルバムジャケットをしばしば自分で彩っています。歌の売れ行きが低調だった時期は、年に8回も個展を開いたことも。「バブルのころは1回の個展で絵が50枚も売れたこともあります。
勉 強が嫌いで絵の基礎は無く、自分でも何を描いておるか分かっていない。適当に描いているんだけど、だからおもしろい。あんなに売れるとは思わなかったな あ。描くのは楽しいけど、画廊で絵を売るのは疲れるのでやめました。「ライブは自分との勝負ですね。歌を作るのは楽しいけれど、人前で歌うのはそうでもな い。勝負している感じです」

赤旗日曜版 2013年11月24日号 文:金子徹記者 写真:岡宮竜 

interview zin

ジンタらムータ

元気出すお手伝い

 

クラリネットやチンドン太鼓などによる親しみやすい楽曲を手掛ける音楽集団「ジンタらムータ」。ファーストアルバム「Dier Irae/怒りの日」の完成を機に、リーダークラリネット奏者の大熊ワタルさんと、こぐれみわぞうさん(チンドン太鼓)に思いを聞きました。

【旅する世界の音】
音 楽を演奏しながら街頭を練り歩き、にぎやかな音や派手な衣装で耳目をあつめるチンドン。「ジンタらムータ」は、大熊さんと、こぐれさんを中心に複数のメ ンパーが条件に応じて参加する機動的なユニットです。チンドンに音楽で周囲の雰囲気を盛り上げたり和ませたり。反原発の集会や官邸前行動ではおなじみで す。大熊さんは、「盛り上がってノリノリの曲もやりますが、安らぐ曲も演奏します。抗議で怒っているだけだと疲れるでしょう」といいます。
「チンドンは世界の街頭に音楽をアレンジしたもの。ミュージシャンを通じて、世界の音楽が旅をしている感じです。『3.11』のようなことが起きなければ、楽しい音楽だけをやっていられたのですが...」

【ロックな感じで】
大 熊さんは、20代半ばに友人の誘いをきっかけにチンドンの長谷川宣伝社に弟子入りしました。「それまでは、パンク・ロックのバンドでシンセサイザーなど の電気楽器を演奏していました。チンドンにも興味があったので趣味と実益のつもりでアルバイト感覚で入ったら、ロックよりもロックな感じで感動しました。 知られざるすごい音楽があるものだと。クラリネットは他の楽器と共同作業で成り立つもので、みんなと一緒に楽しいことができます。こういう音楽があっても いいんだと、認識が大転換しました」

【政治の怒りチンドンで】
新譜の収録曲は、新旧多彩な10作品。オリジナル曲「ある道化師の 週末」や、チリの軍事政権下で虐殺された歌手ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」、 ポーランドの「ワルシャワ労働歌」などを収めます。大熊さんは「こういう古い歌がいま、リアルに響く。政府や企業がいまの社会を壊そうとしているなか、僕 らは微力ながらも『友だち』を増やしていかなければいけません。本当は、こういう歌が必要とされない世界になってほしいのですが、、、」

【長く続けるために】
こ ぐれさんは「3.11」で意識が変わったといいます。「このままでは国家に殺されてしまうと、危機感を抱きました。怒りの声を長くあげ続けていくため に、音楽で元気になるお手伝いをしたいです。いまの政治には、怒りをおさえられないことがたくさんあります。私たちは楽しく生きることを求め、いまの政治 に怒っている。それを音楽で表現したいです」

 

赤旗日曜版 2014年 9月28日 文:金子徹記者 写真: 野間あきら

 

interview liku

Likkle Mai(リクルマイ)

どんだけ私らコケにされたの 原発、格差 痛快に

 

岩手出身のレゲエ歌手で、県の魅力をアピールする「

希望郷いわて文化大使」でもあるリクルマイさんが3月、東日本大震災から3年がたつのを機に東京でライブをおこないます。原発や新自由主義への鋭い批判を込めた曲を手掛ける胸の内を聞きました。

レゲエ音楽のボーカリストとして20年のキャリアをもつリクルマイさん。「リクル」とはカリブ海の島国・ジャマイカの方言でリトル(小さい)の意味です。レゲエはジャマイカで生まれた黒人音楽のジャンルのひとつで、心臓の鼓動に近いゆったりとしたリズムが特徴です。ロック好きだったリクルマイさんは、高校時代にレゲエと出会いました。「学校帰りに毎日のように通っていたレンタル店で、レゲエの神様と呼ばれるボブ・マーリーのCDを借りてきて衝撃を受けました。一音一音が研ぎ澄まされていて、歌詞には弱者を励ますメッセージがある。どうして彼の言葉が遠く離れた私のところに届くのだろうと思いました」高校卒業後、上京して短大に入学。レコード店でアルバイトをして、たくさんの音楽に接しました。「U2などのロックも好きでしたが、レゲエには白人至上主義や大金持ちを批判するメッセージ性と、理屈抜きに踊れる音楽だという二つの大きな魅力があります。私にとってレゲエは解放の音楽です」レゲエのバーやクラブに入り浸り、1995年にバンド「DRY&HEAVY」に加入。2005年に脱退し、ソロ活動を開始。年に100本前後のライブを重ねながら次々とアルバムを発表してきました。

東北の怒りの声
「3.11」後は、チャリティーライブのほか、被災地した漁師にサッパ船(小型ボート)を贈る「LOVE BOAT基金」などに取り組みました。各地の反原発の集会や官邸前行動に参加しサウンドカーに乗って歌ったりもしています。「宮古市の出身で、ひとりの東北人として怒りの声をあげてきました。私のやりたいレゲエは、音楽の視点からみた歌です。子どもでも分かるように社会問題をかみくだき、風刺と笑いの力も加えられたらいいですね」。作詩作曲も自分でおこないます。12年発表のアルバム「ダブ イズ ユニヴァース」には、心地よいリズムにのせて時代を撃つ言葉を放つ曲も。たとえばー。「海山汚され 住処(すみか)奪われ どんだけコケにされたの/この国とこの
電力会社に叫んでやりましょ 原発やめろ」(JUST ONE LOVE IS ALL)「ノー モア 戦争 アンド 洗脳 アイ セイ ノー/真実の扉 開けよう」(I SAY NO)

風刺に目覚めた
1年前、音楽仲間から反骨の演歌師・添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう1987~1944)の存在を教わりました。唖蝉坊は、権力者・資本家を痛烈に風刺した歌で人気を博した表現者。「ああわからない」などの作品は、現代の音楽家にもカバーされています。「100年前の日本に、こんなおもしろい人がいたのかと驚きました。ボブ・マーリー級の衝撃で、私も風刺に目覚めました。辛らつなことをいいながら、どう笑わせるか。日本語のレゲエをどう咀嚼(そしゃく)していくかを考えています」3月のライブでは秋田音頭のレゲエ版も披露する予定。「最近、民謡とレゲエは似ていると発見したんです。どちらもお祭りごとの性格があるせいか、相性がいい。おもしろい化学反応があります。民謡歌手の方に習っているところですが、ビブラート(声を震わす技法)が難しいですね」昨年、東京福生市に転居。米軍の横田基地なある町です。「毎日、すごい飛行機の騒音です。沖縄の人たちの気持ちを実感しています」

 

赤旗日曜版 2014年 2月20日  文:金子徹記者

interview momo

モモナシ

被災地にあいのうた 音楽ユニット桃梨 毎月の無料ライブ100回を超える

 

被災地にあいのうた 音楽ユニット桃梨 毎月の無料ライブ100回を超える

音楽ユニット「桃梨(ももなし)は東日本大震災の後、

毎月無料で続けてきた被災地での無料ライブが10月に100回を超えました。歌を担当する上村美保子さんとテナーベース担当のJIGEN(ジゲン)さんに思いを聞きました。

桃梨は1988年、ボーカルとテナーベースの2人組で活動開始。2005年に初アルバムを発表し、海外を含め各地で演奏活動を続けてきました。ジゲンさんは震災後の余震が続くなか、なじみの仙台のダイブハウスの店主が「心が折れそうになっている」というのを聞き、「いてもたってもいられなくなりました。」「それまでは無料で演奏したことはなかったけれど、5月21日に仙台の知人の店でライブをしました。被災者やボランティアの人も来てくれて、そのつながりで翌日には、南三陸町の避難所でライブをしました。最初がいい感じで喜んでもらえたから続けられました。上村さんは、「段ボールの仕切りの中にいた人が、音が鳴るとムクリと元気になるのがうれしかった。お年寄りや子どもたちの前で演奏したことがなかったので、普通のライブでは味わえないような反応の早さなども感じました」と言います。被災地ライブは手弁当。月に1度、2人の住む東京から軽自動車に機材を積み被災地へ。2泊3日で避難所をまわります。無料ライブをするようになって2年半。聴衆が4人の日もありました。
ジゲンさんは、「初めは被災者の生活のなかにはいっていくことに不安もありました。でも逆に、みなさんが気を遣ってくれました。みなさんよく笑い前向きな反応をしてくれて、気持は立ち上がろうとしているのを感じました」といいます。

明るく前へ
演奏はオリジナル曲が中心です。温かみのある上村さんの歌声と、快適なテンポのジゲンさんのメロディーが、ライブなど初めてという人々に届けられます。「自分たちの音楽は震災後もいい意味で変わっていない。やってきた音楽は、これでよかったと思える」とジゲンさん。昨年夏に発表したアルバム「両手に思いを」の収録作は、ほとんどが震災前に出来ていた曲。それがまるで、被災地に贈るために作られたのかと思えるような、朗らかで励ましに満ちたメッセージソングになっています。
「こころにあいのうた あなたがくれたうた 抱きしめてゆこう」(「恵みのうた」)
「見えないけれどつながっている 離れていても 繋がっている」(「両手に願いを」)
基本的にはポップスですが、民謡の味わいなども織り込んで、ひとつのジャンルに収まらない音楽をつくり上げています。ジゲンさんは、「明るく前を歩いていこうというような音楽が好きだし、自分でも生みだしたい」といいます。100回ライブはほぼ毎回違う場所で実施。「またきてください」という声には、なかなかこたえられません。出前ライブと並行し、「被災地に新品のTシャツを届けようプロジェクト」も実施中。多くの家でしまわれていて、新品なのに着るあてのないTシャツを被災地に届けてきました。その数は現在で6300枚に達しています。2014年は、すべてが新曲のアルバムを発表予定。被災地だけでなく、全国的なツアーにも力を注ぎ、桃梨を知ってもらいたいと意気込んでいます。上村さんはこういいます。「最初は、桃梨?何それ?紅白出たことあるの?という感じだった人がライブに来てみたら、おもしろかったよとなっていきました。ライブに来てくれた人たちライブに来てくれた人たちに、自分は桃梨のライブに行ったことがあるんだよ、と自慢させられるような存在になりたいです。

 

赤旗日曜版 2013年 12月22日 文:金子徹記者 写真: 野間あきら

 

interview yama
bottom of page